Ohsawa Macrobiotics

AMA Japan代表の七林芳春は1982年、オーサワジャパン(株)に入社しました。

オーサワジャパンは日本CI協会の食品事業部。

日本CI協会は桜沢如一(PUネームGeorge Ohsawa)が創設した食養(マクロビオティック)を啓蒙する団体です。

1年目は勤務をしながら食養の勉強から始めました。

玄米食は1976年当時から食べていましたし、オーサワジャパンの伝統各商品の味噌、醤油、梅干、米飴、葛、その他日本の伝統食品は母の実家が曹洞宗の禅寺であった影響もあり幼い時の食事と変わらず何の抵抗もなく食事ができました。

むしろ懐かしく、食べれば食べるほど素材の美味しさがありました。

又食事を通じて命の大切さと同時に生きる力が感じられ精神的豊かさもでき始め、今後、自分の人生が向かう指針ができた時期でもありました。

それと同時に桜沢リマ先生の料理教室は又格別な一時でした。

私は自炊程度の料理レベルですから植物の陰陽から始まり、原料、加工の知識までを含めた上での料理方法は特別であり、受講すればするほどリマ先生が桜沢如一先生と創造してきた平和的世界観は特別の意味があり、正に宇宙の法則そのものを感じつつありました。

マクロビオティックの根幹の陰陽論の教えは全ての生活の基本にあると認識しました。

この命の糧を身につければ人間が平和的に生きるヒントが身につけることができると確信しました。決して個人レベルではなく、人間は自然の一部である認識と共存性の大切さを学ぶ大きい世界観、大宇宙への旅たちです。

マクロビオティックの意味を把握し始めた時期かもしれません。

当時私は小田急線の鶴川にアパートを借り一人住まい。

朝6時に起きメディテーションをして出勤していました。

毎週木曜日には店頭に並べる野菜の集荷があり荻窪の自然食店「グルッペ」に集荷に行ったり、又、週1度、世田谷の農園に作業に行ったりと楽しい日々の生活が続きました。

しかし、1983年、本社が東北沢から板橋区の小茂根に移転し、会社の規模も拡張。

私も3月から貿易部に配属となり上司は桜沢先生とインドで無双原理を学んだ村田鶴彦氏。PUネームはFrank(フランク)。PUネームとは桜沢如一が愛弟子を英語ネームで命名した名前です。

オーサワジャパン貿易部は基本的に桜沢如一の弟子達が世界に広げてきたマクロビオティック食品の普及の為、Ohsawa Macrobioticブランドを普及させる大きい任務があります。

当時、主たる海外ビジネスパートナーは米国カリフォルニア州チコ市のチコサン社。

代表取締役社長はボブ・ケネディー。当然彼も桜沢如一の愛弟子でした。

チコサン社はライスクラッカー(ポンセン)を全米で最初に製造・販売した会社。

その背景には、1963年に渡米した桜沢如一の弟子・八木順成が試験製造を繰り返し完成させました。

1968年に渡米した山崎数子(かず子)、現在八木数子と共に同志としてチコサン社を支えた尽力は隠せません。

八木夫妻はその後シアトルに移転しますが再びチコ市の隣町オーランドに移り1983年から梅の木を植樹し始めます。
毎年少しずつ植樹し2000年6月1日順成氏が死去される迄に全米一番、450本の梅園になりました。

オーランドでは梅干作りを核に味噌作りも開始しチコサン社、(GOMF)等のマクロビオテックネットワークを通じて

サンフランシスコ市内のナチュラルストワー等でも販売されるようになりマクロビオテックフードが拡がりを見せ始めました。

George Ohsawa Macrobiotic Foundation(GOMF)主宰者の、故・ヘルマン相原、コルネリア相原夫妻は桜沢如一思想を啓蒙しながら多くの著作を出版され、VEGA Macrobioticセンターを開設し、学びの場も提供しました。

彼らも又、チコサン社に多大なるサポートした同志です。

*2000年6月1日  八木順成 他界
*2009年7月   八木数子 チコ市のリタイアメントホームに入居
*2016年    自宅&梅園を売却
*2017年1月  Kiyoko&Ron夫妻が管理運営を引き継ぐ

オーサワジャパンからは、輸出商品として、醤油、生醤油、味噌(玄米・麦・豆・米)、梅干し、乾麺(うどん、そうめん、ひやむぎ、そば)、漬物、昆布、ひじき、わかめ、あらめ海苔、餅、葛、玄米酢、梅酢、胡麻油、寒天、とろろ昆布、椎茸、三年番茶、緑茶、玄米茶、コーレン、ヤンノー、きな粉、たんぽぽコーヒ、コッコー、ゆば、板麩、車麩、自然薯鉄火味噌、切り干し大根、蓬、玄米煎餅、南部煎餅、ピーナツソフト、コージ、にがり、梅肉エキス、ユーカリ、きな粉、凍り豆腐、ゆず飲料、小豆、胡麻ペースト、デンシー、椿油、にがり、カムカム鍋、おろし皿、土鍋、おひつ、生活雑貨各種、遠赤外線サウナ、その他を輸出していました。

1984年迄は輸出額も順調に推移しました。

しかし、プラザ合意後、円高が著しく輸出販売も低迷し、輸入拡大を図りますが輸入商品には制限があり経営的には困難な時期となりつつありました。

マクロビオティック思想の基本精神である「身土不二」を考慮した場合、又米国の今後のビジネス展開の可能性は大と判断し新規プロジェクトの企画も進めていました。

具体的には味噌・醤油等の発酵製造食品会社です。

米国側も将来の展開を考慮にいれ賛同。

当然、当時の仕入先メーカも賛同。

半製品味噌を1トンベースにて輸出し現地にて熟成、商品化することも試み準備は確実にできていました。

しかし、このプロジェクトを継続することは残念ながら不可能となりました。

チコサン社は1984年、ポンセンの製造部門を某大手会社に売却しました。

その直後オーサワジャパンとの貿易部門の継続を目指しボブ・ケネディー氏はオーサワジャパンの各商品を拡大させる為、チコサン社の商品仕入先でアーカンソー州でマウンテンアーク(通販会社)を経営していたジョエル・ウォルナー氏との共同出資で1985年にオーサワアメリカ(Ohsawa America)を設立しました。

Ohsawa America設立後、米国東海外のバイヤーGreat Easter Sun(GES)の売上が伸び、東海岸への直行コンテナ出荷も可能となりました。特に生醤油の売上げが伸び続けヒット商品となります。それ以来、現在も米国市場では販売されています。

私がオーサワジャパン退社(1987年10月20日)迄の2年10ケ月、Ohsawa America社とは、とても有機的且つ効率的な仕事ができ売り上げを伸ばしました。

しかし、残念ながら私の退社から2年後の1989年、Ohsawa America社は会社を閉鎖せざるを得なくなり、オーサワジャパン社も米国との貿易を縮小せざるを得なくなったとお聞きしています。

輸入商品に関しては、オーサワジャパンの輸入基準は日本で生産できない又は生産量が少ない原料・商品(オリーブオイル、ドライアーモンド、ドライフルーツ(アンズ、カランツ、プルーン)、パスタ、その他)の輸入でした。

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